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「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」(1966年7月10日放送)は本当にカラー放送だったのか?

このブログ的にはいつもと毛色の違う記事ですがよろしければ。
(この記事は随時加筆・修正していきます。)


1988年に発売された「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」のVHSビデオソフトのジャケット。


日本人なら多分誰もが知っている「ウルトラマン」。全話カラーで製作された日本の特撮テレビ番組の草分けとしても有名です。この「ウルトラマン」、実は第1話放送の一週間前に単発の特番として「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」という番組が放送されています。本編の「ウルトラマン」がカラー放送だった為にこの「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」は本放送当時「カラー放送だった」「いや、モノクロ放送だった」と二説あり、現在でもこの二つの意見が流布しており真相は不明ということになっています。今回はこの番組がカラー放送だったのか、それともモノクロ放送だったのか、放送機材の観点から考えてみたいと思います。


TBSの1966年の年表にも前夜祭がカラーもしくはモノクロ放送だったかの記述はありません。


1.「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」という番組について




大人気番組だった「ウルトラQ」(モノクロ製作)。その後番組として「ウルトラマン」は円谷プロ初のカラー特撮番組として企画されました。そして「ウルトラマン」の第1話の放送開始は1966年7月10日と決まりました。本来予定されていたのは7月17日からでしたが、「ウルトラQ」の放送を一本見送り、1週間前倒しとすることが急遽決まったのです。しかし製作上の遅れから第1話の完成品納品が7月10日に間に合わない可能性が出てきたため、急遽舞台公開イベントを開きその模様を「前夜祭」として録画中継により放送することで1週間の時間稼ぎをしようと企画されたものです。収録は1966年7月9日土曜日午後1時から東京の杉並公会堂で行われ、翌7月10日の日曜日午後7時から放送されました。余談ですが「ウルトラマン」第1話のTBSへの納品完了は7月13日であったため、この時間稼ぎは結果的に正解だったと言えるでしょう。

この「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」の映像は1988年に単品のVHSビデオソフトとして初めて発売され(この時は原版ほぼノーカットの完全収録)、その後「ウルトラマン」がLDやDVD・BDになる度にそのつど映像特典として収録されているので現在では比較的容易に観る事が出来ます(特典として収録されたものは一部武田薬品のCMなどがカットされているものもあります)。収録されている映像は現在唯一現存しているとされるモノクロのキネレコ(キネコ)フィルムからの収録ですのでモノクロ映像です。

ちなみに当時ウルトラマンがどれだけ人気番組だったかというと、


TBSのアニメ・子供向け番組の歴代視聴率ベスト20の表(2002年時点のもの)ですが、ご覧のとおりダントツの1位です。前番組の「ウルトラQ」が次点ですから、まさに期待の新番組だったと言えます。


2.「『ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)』がカラーだ、モノクロだと意見が分かれる理由」

前番組「ウルトラQ」はモノクロ作品でしたが、それが終了して満を持して始まる「ウルトラマン」にはTBSも相当力を入れており、将来を見越して本編は全話カラーフィルムでの製作が決定していました。しかしこの「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」は舞台の録画中継であるためカラーフィルム撮影ではなくVTR収録でした。VTRは1966年当時はまだ大変高価な機材でしたが、前々年に東京オリンピックが開催されたこともありカラーのVTR機材も放送局は数少ないながらも所有はしていました。

「TBSが一押しのカラーが売り物の新番組だから当然前夜祭もカラーVTRによるカラー放送だろう」

そう思う人が多くても不思議は無いはずです。

実際、前述のビデオソフトが出た際に当時私が勤めていた職場の特撮好き先輩が「これカラーだろ。なんでカラーで出さないんだよ!」ってお怒りで、その時始めて私はこの番組が「カラー放送だった説」があるのを知りました。(私がこの「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」の存在を知ったのはキングレコードから1978年に発売された「サウンド・ウルトラマン!」というLPレコードに収録された音声だったので映像を観たのはこのビデオソフトが初めてだった)。

その後に出版された書籍の幾つかにも「この番組は本放送時カラーだった」と断言しているものもあります。(申し訳ありませんが書名は失念)。

その為、今までに何人もの方が真相を調査されているのですが、

「当時の関係者にインタビューする」(当時の記憶による証言)もしくは

「新聞のラテ欄を信用する(カラー番組には【カラー】の表記がある)」

「放送時に番組のタイトルに挿入される【カラー】のスーパーを確認する」くらいしか方法が無いのです。

補足しておきますが、現在ソフト化されて観ることの出来る「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」の映像には当時のカラー番組の通例であった、「番組冒頭に【カラー】のスーパーが入る」ということがありません。しかしソフトの元になったキネレコフィルムにはそれ以外のスーパーは全て入っているように思われるので、「【カラー】スーパーだけが抜かれている」とは考えにくいと思います。

私の友人曰く「TBSや円谷プロに当時の資料が残っていたとしてもそれを見る術が無ければ存在しないも同じ」。個人はもとより、いくら書籍を執筆するプロのライターさんでも全ての見たい資料を無尽蔵に見せて貰える訳では無いのです。

「当時リアルタイムで放送を観た人に証言してもらう」と言っても、なんせ当時のカラーテレビの普及率はたったの0.3%。白黒テレビですら一般家庭にはまだまだ高価な代物でやっとほぼ全世帯に普及したかな?といった時代ですから、よほどのお金持ちでないとカラーテレビなんてとても買えなかったんですね。日本のテレビはNTSC方式と言ってカラーとモノクロには相互互換性が有るため、白黒テレビでも問題無くカラー放送が見れます。これがまた曲者で「当時カラーテレビで観ていた人」でなければ「あれはモノクロ放送だった」と証言できないと言う事になります。

また、これを言ってしまえば身も蓋もないのですが、当時の関係者の証言も100%正しい保証はありません。記憶違いだってあります。

ともかく一番の問題は「なんせ50年以上前の古い話ですから」って事でしょうか…。

そんな中、今までの状況としては「当時の複数の関係者が『あれはモノクロ放送だった』」と証言していること、ある古参の有名なファンの方が「当時からカラーテレビで観ていたが、間違い無くモノクロ放送だった」と証言されており、また新聞のラテ欄にもキネレコのタイトル画面にも【カラー】表記が無い為、多くの方は(私も含め)モノクロ説支持だったんじゃないかなと思います。

でもカラー説はずっと消えずに根強く今日まで残っています。なぜなら「確固たる証拠が無い」し、「やっぱりカラーで残っていて欲しいし、出来ることならカラーで観たいじゃん」という願望なのか…これもまた気持ちとしては大変良く理解できます。


前出のVHSビデオの解説書には「モノクロ作品」との記述が。これが「モノクロ放送」の事を指しているのか、収録したキネレコフィルムの事を指しているのかはわかりません。


3.「当時のVTRとキネレコ(キネコ)について」

前述の通り、この「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」は現在でも映像が残っています。ですが放送に使われた2インチマスターVTRではなく、モノクロのキネレコフィルム(通称キネコと呼ばれるがTBS社内ではキネレコと呼ばれていたのでここではキネレコと表記します)が唯一残っているだけです(2インチマスターVTRが現存しているかどうかは現在まで確認されていない)。

キネレコ(キネコ)というのは簡単に言うと撮影から放送まで電気的な仕組みで行われるテレビ放送を、光学的記録であるフィルムに変換し焼付け→現像して保存するもので、VTRが実用化するまではテレビ放送を映像として残す唯一の手段でした。

ちょっと乱暴な言い方ですが、テレビ画面をフィルムカメラで撮影して残すって思ってもらえればいいかと。


キネレコ装置の参考写真(これは日本テレビのものです)。

VTRが出現して録画が可能になったのですが、当時のVTRは2インチVTRと呼ばれる物で、そのテープはとても大きく場所を取り、そしてとても高価でした。その為VTRで収録された番組は放送が終わると消去されてテープは使い回され多くの番組は残されることは無かったのです。「これは」という番組だけがVTRを消去する前にキネレコフィルムに変換してフィルムとして残され、VTRは消されたという訳です(モノクロフィルムで残す方が遙かに安上がりだった)。それ以外の番組は保存すらされなかったのです。まだ「番組を保存して後に活用する」という概念が無かった時代ですね。「放送したら消えるもの」それがテレビ番組だったのです。

そして、「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」は「キネレコフィルムはともかく元の2インチマスターVTRはカラーだったんじゃないか?」と言われている訳です。


VTRテープいろいろ。一番大きいオープンリールのテープが1966年当時使われていた2インチVTR。余談ですが、TBSにマスターVTRの形で残されている最も古い番組はもはや説明の必要も無いほどの名作ドラマ「私は貝になりたい」(1958年)です。このドラマは前半がVTR録画、後半が生放送という放送形態でしたが、これですら当のTBSは保存する予定は無く、たまたま大阪でこの番組をネットしていたOTV大阪テレビ放送(現在のABC朝日放送)がVTRの調整テストの為にこの番組を録画していたため、奇跡的に今日まで全編VTRで残った、というエピソードがあります。テレビドラマの革命とまで言われるレベルで全国的に話題になった番組でやっとマスターVTRが残される訳ですから、いくら人気があったとは言え子供向け番組である「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」を高価なカラーVTRで残すかというと甚だ疑問ではあります。



1966年を遡ること2年前の1964年時点のTBSのVTR事情。東京オリンピックの為に用意されたカラーVTRは1958年に在京テレビ局で初めて導入されたVTR装置(2インチモノクロVTR)であるアンペックスVR-1000の1号機と2号機にカラーアダプターを装着した2台のみ。ちなみにアンペックスVR-1000は


ご覧のとおりの巨大な装置。これが当時のVTR室に2台ありました。
また、この記事に出てくる新しく導入した3台の芝電気製のSV-7624型VTR(これはモノクロ2インチVTR)というのは


この機械。ずいぶん小さくはなったがそれでも大きい。これら計5台が1964年当時TBSにあった2インチVTR機。

また、この記事には高性能なキネレコ装置と高速な現像機を導入したとも記述があり、VTR共々キネレコ装置が番組を録画保存する上で当時極めて重要な装置であったことを物語っています。


1964年から1967年にかけてのTBSのVTR事情。

1965年12月に上記のSV-7624型2インチモノクロVTRを搭載した初代VTR車が稼働し、出先でVTR録画が可能になります。

次にカラーVTRが増設されたのは1966年12月。高性能なハイバンド型2インチカラーVTR、アンペックスVR-2000が導入され、更に翌年同型機が1台追加され、67年6月にTBS全体でのVTR保有台数は12台(うち2インチカラーVTRは4台)となっています。


ハイバンド型カラー2インチVTR、アンペックスVR-2000(写真は日本テレビのもの)。

つまり1966年7月時点ではTBSにカラーVTRは2台。出先で録画出来るVTR車はモノクロVTR搭載の1台のみということになります。

ところで『「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」がカラー放送だったのならモノクロじゃなくてカラーフィルムを使ってカラーのキネレコで残すはずじゃないか?』という意見もありますが、TBSがカラーキネレコ装置の実用化に成功したのは1968年5月でした。



このことから1966年時点ではたとえカラー放送だったとしてもモノクロのキネレコでしか残すことは出来なかったということになります。


4.「調べてみようと思ったきっかけ」と「中継用カメラの機種特定


先日発売された書籍「エンターテインメントアーカイブ ウルトラQ ウルトラマン」にこの「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」のページがあり、そこに収録当日にTBSが撮影したスチール写真が掲載されていました。その中に「舞台最前列で撮影している中継用カメラ」が写っている写真が1カットだけありました。私は全く勉強不足で、今まで「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」の写真は何度も見たことはあったのですが、この中継用カメラが写っている写真は今回初めて見たのです。


(後日、前出のVHSビデオソフトを観直していたときに、ビデオの解説書にも掲載されていたことに気づいたのですが、写真があまり鮮明ではないこともあり、ビデオ発売当時は大して気にも留めず、VHSビデオソフトも何年も見直して無かったので過去見ていたことに気づかなかった)。


これはその写真。舞台最前列で中継に使われているカメラがどう見ても当時主力のイメージオルシコン管を使ったモノクロカメラであり、当時のカラーカメラヘッドに見えなかった事、また当時のカラーカメラは非常に低感度であったため強い照明が必要であり、カラーでの撮影にしては照明が暗すぎないか?と思った事から、「このカメラの機種を特定できれば当時の放送機材面からのアプローチでこの番組がカラーだったのかモノクロだったのか証明できるのではないか」と考えました。

古い話ですし、家庭用機材と違って一般向けのカタログなんかもありませんから、この機種の特定は相当困難であり、当時の業界誌やテレビ技術誌をくまなく調べるしかないだろうと思った私は、とりあえず地元の公立図書館に行ってみましたが埒が明きません。「ああ、ちょいと国会図書館とかに調べに行ける人が羨ましいぜ」と嘆くも致し方なく。しかしながら多少放送機材の知識があったこともあり、非常に有名な機種でしたので、その後すぐに型番を思い出せました。東芝の「IK-11」と言う「俗に”民放型”と言われたほど民放局に売れたベストセラーのイメージオルシコンの真空管モノクロカメラ」だと特定しました。しかし実際にTBSに納品された仕様の現物写真が無いと誰も納得しないと考え、資料を探しました。


この写真の一番左のカメラがTBS仕様の「東芝IK-11」です。 ズームレンズではない回転式レンズ切り替え、四角いフォルム、サイドの特徴有るバー、6チャンネルのエンブレムや東芝やTBSマークの位置などから「中継に使われたカメラはこの機種であり、モノクロのカメラである」と特定しても差し支えないと思います。

ステージ最前列という重要な位置のカメラがモノクロカメラであるということはこの「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」録画中継はモノクロで録画されたと考えるのが妥当だと考えます。


モノクロカメラ「東芝IK-11」の解説。

ちなみに参考として当時のカラーカメラなのですが、


これが1964年10月時点の最新鋭のカラーカメラです(写真は日本テレビの「東芝IK-35」)。とにかくバカでかいカメラで簡単に移動もできません。この後TBSでは1966年9月に大きさも重さも従来の3分の1という画期的なプランビコン・カラーカメラを当時のGスタジオに導入します。つまり、カラーカメラが画期的に小さくなったのはこの時であり、1966年7月の時点ではTBSのカラー中継車にはこの写真の「東芝IK-35」よりまだ古い「東芝IK-31」(この写真より更に大きく重い)カメラが搭載されていたということになります。


小さく軽くなったプランビコン・カラーカメラ。このカメラの登場がもう少し早ければ「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」もカラー放送になっていたかも知れません。


5.「中継車・VTR車」について

放送局の外から舞台を中継しVTR録画する場合、2つの方法があります。

1つは現場からマイクロ回線による中継で局のVTR室に送り局に設置されたVTR装置で録画する方法(中継録画)。

もう一つは1962年頃からVTRを搭載したVTR車を保有する局が増え、VTR車で中継現場で録画する方法(録画中継)。

1966年のTBSの状況はというと


1961年に初めてカラー対応の初代5号中継車が稼働していますが、これは録画機能を持っていないため、これでカラー中継しようとすると前述のマイクロ回線経由で局で録画(いわゆる「中継録画」)という方法になりますが、一応「舞台中継をカラーで録画する」事は可能ということになります。


初代カラー中継車(初代5号中継車)。

しかし、この初代5号中継車に搭載されていた3台のカラーカメラは東芝のイメージオルシコン3管式の3IOカラーカメラ(東芝IK-31)で、その重さは1台あたりペデスタル(移動脚)を含めて200kgオーバー。その為にカメラ移動には3人がかり、番組製作には前日からの調整が必要、当日も収録の何時間も前から電源をいれておかなければならず、それでも画像が安定しないというものでした。その後、高性能で安定したプランビコン式カラーカメラを搭載したTBS2台目のカラー中継車である初代6号中継車が稼働するのは1967年4月です。

その一方で1965年に初代VTR車が稼働しており、これには前述の芝電製モノクロ2インチVTR、SV-7624型が1台搭載されており、現場でモノクロVTR録画が行えます(この初代VTR車がカラー化されたのは1969年)。

また、「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」は前日昼過ぎから録画し、かなりのVTR編集をされて(収録時の舞台はハプニング続きの大混乱で使える画がほとんど無かったそうです。このあたりのことは過去のいろいろな書籍で触れられています)放送は翌日夜という、ほとんど「撮って出し」のような短時間で放送用素材が作られている事を合わせて考えると、機材や操作が複雑で調整も大変なカラーVTRで編集したとは考えにくいです。

これらのことから1966年7月時点で稼働していた、「東芝IK-11」モノクロカメラを搭載していた「初代3号中継車」もしくは「2代目1号中継車」もしくは「2代目2号中継車」のどれかと、モノクロVTRを搭載した「初代VTR車」との組み合わせでモノクロで「録画中継」(「中継録画」では無いところがミソ)を行ったと考えるのが妥当だと思います。


6.現存しているキネレコフィルムから判ること

TBSがこの番組のキネレコを作成した目的はまず録画保存というよりは、(マイクロ回線による同時ネット局以外の)フィルムネットで放送している地方局へフィルムを送らなければならないという理由があります。その結果このフィルムが今日まで保存されることになったというのが真相だと思います。

当時のテレビ番組は番組中にいろいろな素材に切り替えながら放送をしており、局のマスター(主調整室)から番組進行表(キューシート)にしたがって素材切り替えの合図を出し、スイッチャー(映像)及びミキサー(音声)が切り替えるという操作をしていました。フィルムカメラなどはまだ自動化されておらずカメラを操作したりフィルムを掛け替えたりする担当者が張りついていました。

ほぼ完全版が収録されているVHSビデオソフトのキネレコフィルムを見てみますと

1.武田薬品オープニング(モノクロフィルムカメラへの手動切り替えによる手動送出)

2.ウルトラマン用ウルトラQオープニング~ウルトラマンオープニング(別のフィルムカメラへの手動切り替えによる手動送出・最初の部分が少し切れている事からスイッチャーによるフィルムカメラの切り替えであり、タケダOPのフィルムときちんと繋ぎ合わせされているものではないことがわかる。またモノクロ放送のためフィルムはカラーだが、フィルムカメラはモノクロ用を使用しているはずです)

3.「ウルトラマン誕生」テロップ(モノクロテロップ用カメラへの手動切り替え、アナウンサーによる生原稿読み上げ)

4.本編VTRに切り替え(本編中の第3話ダイジェストはVTRとのつなぎ目がきれいに編集されているためカラーフィルムをモノクロでテレシネしてVTRで繋ぎ編集したと思われる)

5.「ハイシーA」CM(モノクロフィルムカメラへの手動切り替えによる手動送出)

6.「ウルトラ作戦第1号」予告(一瞬フィルムリーダーの黒味部分が映るため手動切り替えによる送出。カラーフィルム(予告編には本編撮影時のNGフィルムやカットした部分のフィルムが使われることが多い)をモノクロ用フィルムカメラで撮影。アナウンサーによる生原稿読み上げ。予告編スーパー送出)

7.武田薬品提供テロップ(モノクロテロップ用カメラへの手動切り替え、アナウンサーによる生原稿読み上げ)

アナウンサーが生読み上げであるというのは予告編とタケダ提供テロップの間の喋りのつなぎが画面と微妙に合って無いからです。

以上、VHSソフトに収録されている内容はここまで。実際の番組もここまでで、実際の放送上ではこの後ステーションブレイク(ステブレと呼ばれる)となりスポットCMが入るのですが、このキネレコの原本フィルムにはそのステブレに入った後の武田薬品のスポットCMが途中まで入っているそうです『実際に上映会(第1回特撮大会など)でフィルムをご覧になった方の証言です』。当時すでにTBSではテレビAPS(自動送出装置)が稼働しており、1964年以降はニュースなど一部の番組を除き、ステブレのスポットCMはAPSにより自動で送出される仕組みになっていました。従って武田薬品の提供テロップ後にAPSで送出された武田薬品のスポットCMがキネレコに記録されているという事は間違い無くオンエア画面をそのままキネレコで記録したということになります。

つまり「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」のキネレコフィルムは放送後に別作業で作られたものではなく、オンエア時にリアルタイムで記録されたものだと言う事がわかります(フィルムネット局用に作るわけですから番組のオープニングから終わりの提供テロップまで全部が収録されてないと意味が無い訳です)。

リアルタイムで記録されたものならば当時の慣例どおり当然タイトルにカラー放送であることを知らせる【カラー】のスーパーが挿入されているはずですが、このキネレコにはその【カラー】スーパーがありません。これもこの番組がモノクロ放送であったと考える理由のひとつです。


7.放送枠による事情

放送枠についてですが、「ウルトラQ」の開始時にTBSとスポンサーの武田薬品の間で「1月2日放送開始、日曜夜7時、30分、28本、モノクロ枠」という契約が結ばれているはずです。

そのうち1本を見送って「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」を放送する。

武田薬品としてはモノクロ28本分の提供費用は払っており、しかも「ウルトラQ」は28本全て完成してから放送順を決めて放送を開始したので本来28本目(最終回)の放送をするはずだった7月10日はモノクロ枠として買い上げていたはずです。

おそらくTBSは鳴り物入りのカラー番組の宣伝のためにカラー枠に変更することも考えたと思います。しかし武田薬品に更なる出費を認めてもらわなくてはならず、また急にモノクロ枠をカラー枠に変更するにあたって送り出し側キー局であるTBS側と受け側の全国のネット局との調整・準備も必要であり、おいそれと枠の変更は出来なかっただろうと思われます。
(余談ですが、TBSが「ウルトラQ」を1本見送ってまで「ウルトラマン」の放送を前倒ししようとしたのは、この直前に「ウルトラマン」の放送を睨んでスタートしたフジテレビの日本初の連続カラーテレビ特撮番組「マグマ大使」に対抗してのことだと言われていますが、個人的にはTBSは「カラー番組」と言う事に拘ったと言うより、「怪獣と戦うヒーローの物語」というジャンルでより先んじられ、「ウルトラマン」が二番煎じと世間に映ることを懸念したのではないかと思っています。もちろんカラーも大きな理由の一つでしょうけど、TBSはカラー積極派の日本テレビに比べてカラー化には慎重だったからです)。

また当時TBSは「ウルトラマン」放送に先駆け、東京都内数カ所で番宣の為にその時点で完成しているフィルムの試写会を行っていました。その最後の会場が杉並公会堂であり、試写会に合わせて舞台イベントを行い、これを収録して「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」として放送しました。これはあくまで推測ですが、その制作費自体はもうすでに28本の作品のスポンサー料を払った武田薬品にお願いする訳にはいかないので、おそらく全額TBSが負担したのではないかと思います。(この「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」のクレジットがTBSと円谷プロの共同制作となっておらず、「協力 円谷プロダクション、制作TBS」となっており、映像権利をTBSが持っているという事は恐らくそうではないかと考えます)。

それから当然出てくる疑問として「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」の映像の中の

1.「ウルトラマン用ウルトラQオープニング~ウルトラマンオープニング」

2.「ウルトラマン」第1話予告編

この2つに関しては原本はカラーフィルムであることから、「この部分だけカラー放送だったのでは?」という事があります。

このような1つの番組枠の中でパートカラーにしようとすると、多分当時でも技術的には出来たのでしょうが、放送枠自体がカラー枠を確保しないとモノクロ枠ではこういった事は出来ません。素直にカラーフィルムをモノクロのフィルムカメラで撮影し、モノクロで送出したと考えるのが妥当だと思います。


8.「当日の新聞のラ・テ欄について」

66年当時、まだカラーテレビは殆どの家庭には普及しておらず、また、カラー放送も珍しかった為、新聞のラテ欄にはカラー放送には【カラー】と表記があるのが慣例でした。「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」についても新聞のラテ欄を見れば簡単に判明しそうなのですが…。



朝日新聞(東京版)の1966年7月10日と7月17日。7月10日の「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」に【カラー】マークは無く、7月17日の「ウルトラマン」第1話「ウルトラ作戦第1号」には【カラー】マークが付いています。これなら「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」はモノクロ放送だったと言えるのですが…。



毎日新聞(東京版)の1966年7月10日と7月17日では7月10日の「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」も7月17日のカラー放送のはずの「ウルトラマン」第1話「ウルトラ作戦第1号」にも【カラー】マークがありません!。これでは毎日新聞を使って調べ始めた人からは「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)カラー放送説」が出てきても不思議は無いです。新聞のラテ欄も必ずしも正確では無いと言うことですね。なお、地元の図書館には読売新聞の縮刷版は置いていなかったので調べることが出来ませんでした。


9.当記事としての結論

ツイッターでリプを頂いた方から教えて頂いたのですが、「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)」当日、演出の実相寺昭雄ディレクターと共に演出を担当した樋口祐三プロデューサーの証言が「ウルトラマンDNA」誌Vol.3号(2005年・小学館)に掲載されていると教えて頂きました。(当時私も読んでいましたが何の雑誌だったか忘れていた)。

それがこの部分です。(当日は実相寺氏は中継車から指示を出し、会場内を樋口氏が担当しました)

今まで述べてきたこととこの証言との整合性が取れていると思うのですが…。


以上の事から当ブログ記事では「ウルトラマン誕生(ウルトラマン前夜祭)はモノクロ放送だった」と結論づけたいと思います。「状況証拠ばかりで物的証拠が無いじゃないか」と言われそうですが、唯一の物的証拠は放送素材である2インチマスターVTRしかありませんし、おそらくキネレコフィルムが作られて、なおかつそれが保存されているという事は「放送後のVTR消去前提」だと思いますので、おそらくマスターテープってもう現存していないのではないかと考えるのですがどうでしょうか。
また、中継用カメラの特定自体は限りなく物的証拠に近いものではないかと個人的には思っております。

でもたとえモノクロキネレコフィルムでも今日までこの映像が残っていることにはもう感謝しかありません。だってこれほどまでに「ウルトラマン」製作当時の1966年の時代・空気・熱気・子供達の姿etc.…が記録されている映像は他に無いのですから。できれば最初のVHSのバージョン(CMまで全部入っている)でぜひ観て頂きたいと思います。というか、ノーカットバージョンもう一回出して>TBS&どこかのメーカーさん。


10.参考資料その他

なお、この記事を作るにあたりまして、下記資料から図版を引用させていただきました。

1.「エンターテインメントアーカイブ ウルトラQ ウルトラマン」(ネコ・パブリッシング 平成30年12月発行)

2.「TBS50年史」及び「TBS50年史 資料編」(非売品 株式会社 東京放送 2002年1月発行)

3.「ウルトラマンDNA」Vol.3 (小学館 2005年6月発行)

4.「テレビ 夢 50年(日本テレビ50年史)」(非売品 日本テレビ放送網株式会社 2004年3月発行)

また下記資料を参考にさせていただきました。

1.「テレビ放送開始30周年記念特集 3-8 スタジオ・中継技術」(テレビジョン学会誌 VoL37 No.4(1983)


【オマケ】


「TBS50年史」にはもちろん一大怪獣ブームを巻き起こした「ウルトラQ」「ウルトラマン」についてもちゃんと記述があります。もちろん円谷プロが払えなくて困ったオックスベリー1200シリーズオプチカルプリンターの代金4,000万円を肩代わりしたことも誇らしげにしっかりと載ってました。

最後に、長文をお読み頂いた皆様へ。ありがとうございました。

「アンヌ隊員」ことひし美ゆり子さんに逢ってきた【ウルトラセブン】

一昨年の7月の事ですのでかなり前のことになりますが、「ウルトラセブン」の「アンヌ隊員」ことひし美ゆり子さんにお会いしてきました。

私の世代的にはウルトラシリーズというと1971年の「帰ってきたウルトラマン」がリアルタイムで、ウルトラセブンの本放送(1967年~68年)の頃はおそらく見ていたんでしょうがまだ小さかったので記憶に無く、覚えているのは本放送後1970年頃までに頻繁に行われていた再放送の方です。

「ウルトラセブン」は前番組の「ウルトラマン」より若干上の年齢層を意識しており、子供番組でありながらその独特なハードSFに通ずる世界観は現在でも高い人気を誇っています。

ウルトラシリーズに出てくる怪獣や異星人と戦う特殊チームの設定やデザインもこれまたあの時代に於いては十分未来を感じさせるカッコイイもので、その隊員の中には必ず紅一点と言える女性隊員が1人(もしくは2人)出てきます。

中でも「ウルトラセブン」でひし美ゆり子さんが演じた「ウルトラ警備隊」の「アンヌ隊員」は別格で21世紀の今でも歴代女性隊員の人気投票をやると必ず1位もしくは上位になるほどの人気です。もっとも当のご本人はつい10数年前まで当時少年だった人たちに今でもそんなに人気があるともつゆ知らず、ごく普通の主婦として暮らしておられた訳ですが。


で、幼少の頃から特撮モノが大好きだった私もご多分に漏れずひそかにファンだったのですが、むしろ決定的にこの方のファンになったのは、「ウルトラセブン」の後の「お色気女優」的な仕事をされていた時期でした。「週刊プレイボーイ」に「変身!アンヌ隊員」のコピーとともに掲載されたヌードグラビアを見てから完全に憧れてしまいまして、私が小学校の時に東映の成人映画に出られた時なんかはどうしても観たくて屋根伝いに映画館に忍び込んで観たくらいでしたから、まぁませたガキだったなぁといえばそれまでですが(笑)。(ちなみに「好色元禄(秘)物語」という映画。成人映画なので確かに裸のシーンもありますが良い映画ですよ)

特撮ファンであり古いB級日本映画のファンでもある私にとってはそれ以来変わらず永遠の憧れの女優さんの一人なのです。もうすでに還暦を過ぎておられますが、今でも年齢を感じさせずお綺麗な方です。

私の場合、山口での学生時代も、社会人になって東京に出てからも、Uターンで山口に戻ってきてからも、身近には同好の士がおりませんで、いわばひとりでこつこつ特撮ファン活動をやっていた「スタンドアローン」なファンであったわけですが、パソコン通信の時代になって少しずつ離れたところに同じ趣味の知り合いが増えていきました。特撮ファンの世界というのは意外に狭いもので真面目にこつこつファン活動やってると声かけてくれる人も結構いて、だんだんとその輪が広がっていきました。

そうこうしてると「こいつは常識的に振る舞えるある程度信用できるヤツだろう」と認められれば仲間内のオフ会などに呼ばれるようになります。行き過ぎた「まにあな人たち」の中には結構「イッちゃってる危ない人」も多いのです。(アニメファンなんかにも多いですよね)

そして1997年のある日、ひし美さんを交えての仲間内でのオフ会に誘われたのです。当時はひし美さんは全く表舞台には出ておられませんでしたので、まさか直接お会い出来る機会が来るとは到底思ってもおらず、とても楽しみに参加したのを覚えています。

素顔のひし美さんはおしとやかで聡明なアンヌ隊員とは違って姉御肌の陽気な気配りのやさしい女性でした。会場はひし美さんの旦那さんが経営されている台湾料理の店「台北飯店」(調布店では無く今は無くなってしまった三鷹店)でしたが、旦那さんの出身地と同じ山口県から来たこともあってか、はたまた私がひし美さんのウルトラセブン以外の出演作も多くチェックして観ていたからなのか初対面ながら話が弾みすっかり打ち解けてしまいました。

その後いくつかのイベントに参加したりしているうちにすっかり意気投合して仲良くなり、それ以来お付き合いが続いています。でもずっと「憧れの女優さん」であるスタンスは私の中で変わりません。

その後、私は山口県在住ですからそうそう直接お会いする機会は無かったのですが、2010年の7月、東京に行く機会が出来たのをきっかけに東京在住の当時の仲間連中数人とひし美さんに会いに行く計画を立て実行に移しました。場所は調布にあるひし美さんのお店「アジアン・タイペイ」。実に11年ぶりの再会です。(その間もネット上他での交流は続いていました。全くもってファン冥利に尽きます…)



この間にひし美さんは「公式HP」「ブログ」「ツイッター」ととても同世代の女優さんでは考えられないほどネットを自由に使いこなされるようになっており(HPはファンの管理ですが、ツイッターとブログは自力で試行錯誤しながら始められました。ちなみにMac使いです)。多分現在ではウルトラシリーズに出演した俳優さんの中で最もネット上でファンとの交流を活発にされている方だと思います。

この日は久しぶりにお会いするにも関わらずあの頃と同じようにざっくばらんに応対していただき、とても楽しい会となりました。(この日は私の高校時代の友人が隠れアンヌファンだったことが判ったので二人して山口から会いに行きました)


そして1年数ヶ月が過ぎ、ひし美さんから「今度「牙狼」(テレビ東京系)の劇場舞台挨拶で初めて博多に行くんだけど」と連絡がありました。私がこの機会を逃すはずはありません。即答で「見に行きます」と答えて当日出かけることにしました。

2011年10月22日(土)、博多の中州大洋劇場で舞台挨拶がありました。これは撮影できませんが、「牙狼」の公式HPに当日の写真が載ってますのでリンクを張っておきます。(こちら)ひし美さんを久しぶりに生で見れたのも嬉しかったですが、特撮ファンとしては雨宮慶太監督も見れたのが嬉しかったです。(お二人はこの日TVQ九州の番組「チラチラパンチ」の取材も受けられたようです。Youtubeにアップされてます(こちら))

翌日もイベントがあったのでこの日は博多に宿泊しようとしたのですが、なぜだかどこのビジネス・カプセルホテルも全く空きが無かったので天神のネットカフェで雑魚寝をしました。

余談ですけど、舞台挨拶の前に博多駅前のナムコのゲーセンで「アイドルマスター」のキャンペーンをやってるという情報も掴んでいたのでついでにそっちにも行ってゲットした戦利品を眺めながら眠りにつきました(笑)。アイマスとくれば黙ってられない私です。



ネットカフェで戦利品にまみれて寝るのはなかなかの至福の時間であります(笑)


本題からそれちゃいましたけど、翌23日(日)は天神中央公園で地元のニューハーフタレントの「和央ゆうか」さんとトークショー。ひし美さんが着てるのはウルトラ警備隊のユニフォームを模したサイクルジャージ。わざわざ持参されたそうでそのサービス精神に頭が下がります。その後は和央ゆうかさんのお店(特撮&アニソンバー)に移って更にディープなトークショーとなりました。

今回は個人的にお話出来る機会はありませんでしたが、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。今年はウルトラセブン45周年ですので、いろんなイベントが企画されていると思います。またどこかでお会い出来るといいなぁと思いつつ、参加出来るイベントには積極的に参加しようと思っています。

「アンヌ隊員」だけでなく「女優・ひし美ゆり子」の足跡は昨年筑摩書房から出版された「万華鏡の女」(ひし美さんと映画評論家・樋口尚文さんとの共著)に詳しいです。興味のある方はぜひお読みになってみてください。

余談ですがこの本の中にアニメ監督の押井 守さんの実写映画に出演依頼が来て周囲に相談したら「ぜひ出るべきですよ」と言われオファーを受けたとのくだりがありますが、その時の相談相手の中で「絶対に出るべきです!」とものすごく強く勧めたうちの1人が私です。押井監督、感謝してよネ(笑)。ちなみに「どんな映画撮る人なの?」と聞かれて「ひし美さんが観たら5分で眠くなる映画です」って答えたのも私ですが…(爆)

もしタイムマシンがあるのなら、あの頃山口の片田舎でウルトラセブンを観ていた当時の自分に教えてあげたいですね。「いつか大きくなったらこの人に会える日が来るよ」って。

資生堂の宣伝史を振り返ってみた(その4)

今日は就活で某県某所に来ています。今ホテルでこれ書いてます。今の仕事は春までなのでしばらくはあちこちに忙しく出かけることになりそうです。

またWindows7への移行にあたってブログエディタを全面的に「Windows Live Writer」に変えました。今までジャストシステムが出していた「xfy BLOG Editor」の無料版がとても使いやすくて愛用していたのですが、去年サポートが終わってしまい、最近はFC2の仕様変更に伴ってか正常にアップ出来なくなっていた事もあって踏み切りました。まだ慣れてないのですが、無料の割にはWord感覚で使えてなかなかいい感じです。FC2ではカテゴリが反映されなかったりするのがちょっと困るとかいろいろありますが・・・まぁMicrosoftの無料版ソフトですからあまり過度な期待しても(爆)

てな訳で先日の続きです。



'68年「ピンクポップ」(口紅・ネイルカラー)。とても40年前のセンスとは思えない明るく楽しくおしゃれなCM。お茶目な魅力たっぷりなモデルさんはティナ・ラッツさん。当時17歳。この撮影は深夜までかかったそうですが終始笑顔を絶やすことはなかったそうで、この後日本のみならず世界的にも大人気のモデルさんになります。この作品、機会があればぜひ見てみてください。それにしても口紅400円だったんだね、当時。


'68年「メイクアップ印象派」(クリームパクト)。冒頭かなりの時間無音状態が続いてびっくりさせられます。CMは10秒以上連続して無音状態ではいけないと規定がありますのでそれを逆手に取った演出ですね。映像は印象派の名にふさわしく、かなり実験的かつ先鋭的でなおかつもの静かな描写が続きます。プリントの退色がかなり進んでいてオリジナルの色がどうだったのか見てみたい気持ちになります。(キャプチャー写真は補正したもの)。吸い込まれそうな瞳のモデルさんは岸さおりさん。杉山登志氏の作品。


'69年「インディアンルック」(ピンクパウワウ口紅)。この当時こういうファッションが流行ったのかなぁ、どうなんだろ。サイケ&ヒッピーな時代ですけどね。珍しくメイクの課程を見せていくタイプのCMです。モデルさんはバニー・ラッツさん。上に書いたティナ・ラッツさんの実のお姉さん。「ピンクポップ」の撮影時にティナ・ラッツさんに同行していたところをスカウトされ、この後資生堂CMに欠かせないモデルさんになっていきます。姉妹で資生堂のキャンペーンモデルを務めたのってこの二人だけじゃないのかなぁ、たぶん。


'69年「ボラボラカヌー」(ビューティケイク ブロンズ)。カヌーを漕いでる人は現地調達のエキストラ。なのでなかなか自然な笑顔が出ずに終始表情が硬くて撮影には苦労したそうです。どうやってみんなの自然な笑顔を引き出したかというとそこは裏話があるのですが、ちょっとここに書くのもどうかとも思うのでご想像におまかせします。モデルは大里リンダさん。サマーキャンペーン初のカラーCM。


'69年「ジェラシー」(MG5)。'67年に誕生して一世を風靡した日本初の男性用総合化粧品ブランド、MG5のCM。このボトルデザインは今見てもカッコいいと思います。モデルは団次郎(現:団時朗)さん。私の世代的には「帰ってきたウルトラマン」のお兄さんですね。日本人離れしてカッコ良かったなぁ。団さんがダルメシアンを連れてるという絵柄は初期のMG5のキービジュアルと言えるもので、このCMでは散歩途中に団さんがかわいい捨て犬を見つけて溺愛。あわやダルメシアン君は・・・というもの。毎回少しコミカルな味がMG5のCMの特徴でした。MG5、驚くことに今もあるんだよね。しかも価格も当時とあまり変わらない。ドラッグストアの棚の一番下に柳屋ポマードとか丹頂チックとかバイタリスとかと一緒に並んでるのが定位置。女性用で言うところの”おばあちゃんの化粧品”ことドルックス(昔は高級化粧品)と同じ扱いと思ってもらえればわかりやすいかと。


'69年「めぐりあい」(オーデコロンモア)。資生堂宣伝史のブックレットでは'70年となってるんだけど、'69年の作品です。引きの定点撮影で明らかなストーリーを感じさせる演出が秀逸。見たら感心すると思います。印象的なCMソングを歌ってるのは町田義人さん。角川映画「野生の証明」の主題歌のあの人ですね。モデルは大島あきよさん・・・ってこの距離じゃ誰だかわかんないけど(笑)。この「モア」ってオーデコロンもまだあるんじゃないのかなぁ。資生堂の商品、ライフサイクルが長いものはすごく長いよね。最近は「メガブランド構想」とかで徐々に少量ブランドが消えつつあるみたいですが。


'69年「オリーブ連隊」(オリーブ石鹸)。日本のCM史に残る金字塔。カンヌ広告映画祭金賞・CM全米フェスティバル大賞・ACCグランプリの三冠王を達成しアメリカCM殿堂入りまでしてしまった名作。オチのあるCMなので内容は詳しく書きません。ぜひDVDなどでご覧くださいませ。楽しいよ。出演したのは新宿の葵幼稚園の園児さんたちでした。それにしても木の桶って見なくなりましたね。銭湯はほとんど黄色の「ケロリン桶」だもんね。それすら最近は減ってきてるんだそうで。


'69年「おくりものに迷ったら」(オリーブ石鹸)。モデルさんはその愛くるしい魅力で「美人」の概念を変えてしまった秋川リサさん。このCMの前にテイジンの「ピーターパン水着」のCMで一躍人気者になりました。どちらかというと一般人とはかけ離れた美しさを持つモデルさんが多く登場する資生堂CMにおいて異色の存在ながら特に石鹸等のトイレタリー商品その他でこの後資生堂CMに無くてはならないモデルさんになっていきます。


'70年「ティナの電話」(ラブインカラー口紅)。「電話なんて信じない♪」の軽快なCMソングにのって意地でも電話に出ない女心。モデルさんはティナ・ラッツさん。仕草や振る舞いにティナの魅力全開でなかなかおしゃれなCMです。このラブインカラーのCMを演じる「ラブインガール」は確か4人いて、一人一人が主人公のものが週替わりで放送されていたという当時としては画期的なCMでした。ちなみにこの写真の来週のラブインガールは街田リーヌさん。黒沢年男さんの奥さんですね。あとの二人は知りません、すみません。

今回はここまで。続きはまた。

しつこいようですが本編がご覧になりたい方はぜひ「資生堂のCM」(エイベックスイオ)をどうぞ。ここに載せた全部が収録されてるわけではありませんけど・・・。

資生堂の宣伝史を振り返ってみた(その3)

前回の続きです。


ちょっと前後してしまいますが、'62年の「ワゴン」(資生堂香水)。高貴かつ優雅な雰囲気漂う60秒のCM。モデルはこの時期の資生堂CMの常連、真鍋賀子さん。当時は香水って大変な高級品だと思うのですが、入れ物が容器の加工技術の関係なのか意外とありきたりですね。「物事は全てリッチでなければならない」。「高貴さ、上品さ、化粧をすることの楽しさ、落ち着いた美しさ」。資生堂の美意識がよく現れたCMだと思います。


'64年「メークアップトウキョー」(口紅・ネイルエナメル)。この年の春のキャンペーンは秋に控えた東京オリンピックを意識した「東京の24時間を彩る色を口紅とエナメルに」と言う訳で東京の24時間を闊歩する女性達が次々登場します。このキャンペーンが評判を呼び口紅がずいぶん売れたそうで。


'65年「チェリーピンク」(チェリーピンク口紅)。モデルはまたまた高橋美恵さん。この当時の資生堂のファニーフェイスの代表と言うべき人で、化粧品のみならず石けん等のトイレタリー商品まで、資生堂CMの出演本数は群を抜いて多いです。春の高揚した気分を表すかのようにモデルさんも口紅もブランコに乗って揺れる揺れる。それもこのブランコ、前後だけでなく左右にも揺れる。その映像は斬新そのもの。当時はそんなブランコなんか無かったのでこのCMの為の特注品。印象的なCMソングは桜井順氏。歌ってるのはスリー・グレイセス。このキャンペーンを発端に60年代後半はピンクの口紅が大流行したそうです。ACCグランプリ受賞。杉山登志氏の作品。


'65年「タンゴ」(スペシャル口紅・ブレストパウダー)。'63年の「サイコロ」を更に進化させた立体オブジェアニメーション。当時の技術の粋を集めてタンゴのリズムに合わせて動画が、写真が、オブジェがアニメで、合成で動きまくる。一見の価値ありです。モデルはやはり当時の資生堂の常連、札辻輝子さんとジェリー伊藤さん。カンヌ広告映画祭銀賞受賞のこの作品、もちろんディレクターは杉山登志氏。


'66年「ピンクピンク」(口紅)。前年に引き続きピンクの口紅のキャンペーン。軽快な音楽に乗って登場はまたまた高橋美恵さん。しかしモノクロのCMなんだけどなんとなく色が連想出来てしまう演出が凄い。これも杉山登志氏の作品ですが、氏の作品、しいては氏の所属する日本天然色映画が手がけた作品あたりから日本のTVCMは「商品名や効能の連呼型」から「その商品を買うこと・使うことによって生じる楽しさ・便利さを連想させるイメージ型」へと変化していったように思います。


'67年「リップアート」(リップカラー)。67年のキャンペーンはモデルさんでは無く東宝の女優さんである高橋紀子さんが登場。CM曲とそれを口ずさんでいる映像がシンクロしている軽快なCMです。


'67年「渚にて」(ビューティーケイク・メイクアップローション)。ロケ地はハワイ。まだCMの海外ロケは珍しかった時代(というかこれが日本初の海外ロケCMだったような気が…知ってる方教えて下さいませ)。モデルは初代サマーギャルの前田美波里さんと村田秀雄(後の団次郎、さらに現:団時朗)さん。来宮良子さんの静かなナレーションが落ち着いた優雅なひとときを感じさせる、現在では考えられない贅沢なCMです。

今回はこんなところで続きはまた。

実際のCMが見たい方はぜひ「資生堂のCM」(エイベックスイオ)をお買い求め下さいませ。損はしないと思いますよ。

資生堂の宣伝史を振り返ってみた(その2)

前回の記事に問い合わせがありました。

件の「資生堂宣伝史」はどうにかして入手または見ることが出来ないのか?。

またそれ以外で資生堂の歴代CMを観ることが出来ないのか?。


まず「資生堂宣伝史」ですが、さすがに出版から20年経ってますしもともと非売品なので、古書店かオークションくらいでしか入手は出来ません。

良品だと4~5万円はすると思います。安いのはそれなりに本の痛みやテープの劣化などがあるかと。

気をつけないといけないのはテープの状態で、VHSテープの場合は保管状態も影響するので必ずしも「未開封」と謳ってあるものがいいとも一概に言えません。むしろ再生確認してあるほうが良いかも知れませんのでこのへんは各人でご判断を。

中にはテープをDVDに起こしてそれだけを販売している輩が居ますが当然ながら手を出されないことをお勧めします。

テープだけじゃなくて書籍そのものにも興味がある方は買って損はしないと思います。印刷とかむちゃくちゃ綺麗ですし。

「資生堂宣伝史」には1979年版と1992年版がありますのでお間違えないように(TV・CM篇があるのは1992年版)。

またとりあえず見てみたいというのであれば意外と簡単です。

この本、一般的な「社史」と同じように当時全国のかなりの公営図書館に寄贈されてます。

ですのでお近くの図書館で蔵書として所蔵されてる率も高いので問い合わせてみることをお勧めします。

(最近はほとんどの図書館で蔵書のネット検索もできます)

ただ閲覧のみで一般貸し出し不可扱いだったり、テープは貸し出し不可等の場合もありますので、その場合は係の方と交渉してみてください。

(私の住んでる山口県でも何カ所かは蔵書として持ってるようなので全国的に所蔵してる図書館は多いと思います)

でもホントの一番の問題は今現在DVDが主力の時代に各家庭にVHSテープの再生環境がまだ今もあるかどうかですよね(笑)。借りてきた変なデッキ使って巻き込んだらシャレにならないし。


またCM自体を見る方法はいくつかありまして、

まずエイベックスイオから「資生堂のCM」というDVDが2本発売されています(Vol1.Vol2)

また内容に一部ダブリがあり、資生堂のCMだけが収録されてる訳ではありませんが、杉山登志作品中心であれば「ACC50周年企画DVDシリーズ~CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志TVCM作品集」というのも発売されてます。

どちらも現行商品ですのでAmazonあたりで入手出来ます。

この手の商品にありがちな「アレが、コレが入ってない」という不満があるかもですが、正規商品としてリリースされるだけでも良い時代だと思います。

その他、法的には?ですが、Youtubeでもかなりの作品は見ることが出来ます。「資生堂のCM」とかででも検索していただければ。映像の元ネタは「資生堂宣伝史」からのものがほとんどみたいですが。

その他代表的なものは銀座の「ハウス・オブ・シセイドウ」や静岡県掛川市の「資生堂企業資料館」でも見ることが出来ますのでお問い合わせされてみると良いかもです。特に資生堂企業資料館はポスターなどその他の展示もありますので、資生堂フリークにはお勧めです。

そんなところでしょうか。風邪引いてしまったので寝ます。続きはまた。

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缶コーラ

Author:缶コーラ
山口県在住。ローカルなネタを含めて
何でもアリで書いていきたいと思います。

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